【親の看取り】母を見送りました。

介護のこと
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2024年1月28日に母を見送りました。

89歳で老衰でした。

晩年の約3年間は介護が必要となり、自宅で介護をしていたのですが、最後の3ヵ月間は病院にお世話になりました。

私の夫は婿養子で結婚してから二人の息子に恵まれ、母とは結婚後もずっと同居生活でした。

息子たちが社会人となってからは、夫と母と私の3人暮らし。

息子たちが幼い頃から学生になるまでは母が面倒を見てくれたお陰で、私はパートの仕事を続けることが出来たこと、そして息子たちの面倒を見てくれたことは本当に感謝しています。

ただ、婿養子の夫と母はずっと折り合いが悪く、何度も嫌な思いをしました。

また、高齢になってからの母は、面倒くさがりな性格に拍車がかかり、億劫さが目立ち始め、私との折り合いも悪くなって行きました。

あのままの状態が継続していたら、大嫌いな母のままでお別れすることになっていたかもしれません。

なんとも親不孝な娘でした。

母が十二指腸潰瘍を患ったことがきっかけで介護が必要となり、亡くなる前2年間は私はパートの仕事を辞めて、母の介護に専念することを決意。

いくらパートと言えど、毎月の僅かな収入が途絶えることは不安でした。

今、思えばパートを辞めて母の介護に専念したことに後悔は全くありません。

母も施設での生活を望んではいませんでし、私自信も母を施設に入所させると言う選択肢はありませんでした。

幸いにも、母と折り合いの悪かった夫も仕事を辞めて在宅介護をすることに快く賛成してくれたのでした。

また驚くことに、母が介護が必要となったことで、私と母の関係や夫と母との関係、そして夫と私の関係も良好になったのです。

介護が必要となったことで、母はとても可愛らしいおばあちゃんに変化して行ったことも大きな要因かもしれません。

綺麗ごとのように聞こえる母の在宅介護ですが、実際は綺麗ごとどころではない状態も日々ありました。

正に、「髪の毛を振り乱しながら毎日を送っていた。」と言うような状況も多々ありました。

最後の一年間は認知症の症状が出て、眠っている時以外は大きな声で騒ぐこともあり、最初はその症状について行けずに、何度も怒鳴り返し自己嫌悪に陥ることの繰り返し。

「このままでは、私は犯罪者になてしまうかもしれない、、、。」そんな思いもよぎるような状況が幾度かあったことも事実です。

ただただ母には申し訳なく、「ごめんね。」と謝り、反省する日々。

しかし、徐々に騒ぐ母の扱いにもコツを掴んで対応することが出来るようになり、子供に戻ったような母の様子は本当に可愛らしく、辛いと思える介護も母の愛くるしい態度を見ることが楽しみに変わって行きました。

ただ、高齢であり、いつも不安と隣り合わせ。

おとなしく眠っている母を見ては、「死んでいるのでは?」と思うこともあり、布団が上下にかすかに動いているのを見て、「あっ大丈夫、生きている。」と胸をなでおろしたことも数知れず、、、。

徐々に老いて行く母の姿を間近で見ることは、本当に胸がえぐられるような思いでした。

介護する側の家族にとって、オムツ交換や食事の介助などは、実はそれほど大変なことではないかもしれません。

私が一番辛いと思ったことは、食欲が落ちることでした。

食べることは生きる上で一番大切なこと。

特に高齢者にとって食事が摂れない状況は、体力の衰えを急速に加速させてしまうことに直結するため、ご飯を「もういらない。」と言って食べられなくなる姿を見ることが一番辛かったです。

逆に、「美味い。」「もっと食べたい。」と言ってきた時は、飛び上がるくらい嬉しいことでした。

母を介護するに当たって、介護の様子や終末期、看取りの様子を本来ならその時々に感じたことなどをブログに綴りたいと思っていたのですが、いざパソコンに向かって気持ちを綴ろうと思うと、溢れる思いで胸が張り裂けそうでブログを書くことが出来ませんでした。

母を亡くしたことは相当ショックで、今でも悲しみの真っただ中にいる状態ですが、いつまでもこのままではいられないと思い、少しづつ前を向いて行こうと自分で喝を入れています。

今後は少しづつですが、母の介護や看取りの体験やあの時の気持ちを、このブログに綴って行こうと思います。

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